昭和56年8月14日 朝

御理解第2節
  先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。



 金光大神の御教えを行じて行くという事がお道で言う信心なのです。参っております。拝んでおります。もう親の代からの信心ですと言うても、ね、それは、なるほど信心が続いておるということですけれども。教えに基づいた生き方しなければ金光大神の信心とは言えないと思うです。いわゆる金光様のご信心ぶりというものが、身にも心にも家にも出来てくるということなんです。信心とは。だからそういう信心をすれば、誰でも御神徳が受けられるとおっしゃっておる。
 ね。沢山の金光様の信者はおるけれども、なら御神徳を受けたと言うのはそんなにざらにはないのです。ね。ですから、金光様のご信心ぶりというものが、身にも心にも家にも私は出来てくるという事。それが成されて行くという事が、金光教が、ここで教祖がおっしゃっておられる、信心すれば誰でもお徳が、御神徳が受けられる。しかもみてるということがない。神徳は信心すれば誰でもとね。誰でも受ける事が出来る。
 金光様の信心さして頂きよったら、だんだん教えを行じさして頂きよったら、第一、物の見方、考え方が変わって来たということにならなければいけんのです。ね。それにどうでしょう。信心のある者もない者も同じような考え方。ね。それでは、金光大神の信心をしとるとは言えないでしょう。心が育つという事。教えに基づく事によってです。言うならば、心がいよいよ肥え、豊になり。物の見方、考え方も、ね、いわゆる御神徳の頂けれる心の状態というものが開けてくるから御神徳を皆が受ける事が出来るのです。
 ね。まあ言うならば、次元の違った世界に住むということです。ね。熱心に信心をしておりますと言うても、信心のある者もない者も同じような心配事に心を奪われてしまう。同じような事にやっぱり腹を立てておる。と言うならね、信心を頂いておるということにはならん。またもちろんその信心を頂いておる値打ちにもならない。教祖の御教えを私どもがいよいよ生活の上に頂いていっておりますとです、必ず心が育ちます。言うならば教えは心の糧なんです。
 ね。それを、いかに美味しく頂くか。いかに誰でも頂けるように。例えば食べ物にするなら。ね。味の付け方。私それが合楽理念だと思うです。合楽理念は金光大神の御教えを誰にでも分かりやすく、誰にでもその気になれば頂けれる。しかもその味付けようがです。甘い物が好きな者には甘い物。辛い物が好きな物には辛い物の味の付け方。人間が人間らしゅう生きる。全ての事に御の字を付けてなどというのは、私は甘い味見を付けていっておるようなもんじゃないでしょうかね。
 ね。いわゆる、女子供でも好むという事になるんじゃないでしょうか。ね。普通では、とてもとても辛抱が出来ない苦しい事。苦しい事には違いがないけれども、合楽理念に基づいて思いを成す時に、ね、そこに神愛を感ずる。私これは、辛い物の好きな人に辛い物の味を付けておるようなもんじゃないでしょうか。お酒の好きな人にお酒を与えておるようなもんじゃないでしょうか。もうその向こうには、こういう外で普通で言うなら、普通で通れないような難儀を通り抜けた向こうに、ね、かつて味わった事のない有り難き、勿体なき、恐れおおきの幹が頂けるのだと。
 それがそのまま御神徳になるのだと。ね。昨日、十三日会で文男先生が申しておりましたが、合楽の信心を頂くという事は、まず親先生を信ずる事ぞ。まず、教えを行ずる事だ、合楽理念をマスターする事だという事をまあ一番に申しておりましたですね。例えば、なら教祖の御教えにどんな素晴らしい例えば、分かりやすく、まあ言うなら食べやすく、誰にでも好まれるように味を付けて下さって、目の前に置いて下さっておってもそれを食しなかったら、血にも肉にもなりませんよね。
 どんなに素晴らしい教えだと言うても、ね、聞いておるだけでは、私はお徳にはならないと思うです。ね。それを頂いて行く所に今までの、言うならものの見方も考え方も変わってくる。キリストの御教えという事ですが、難じ敵を愛せよと。私は意味が分かりませんでした。難じの敵を愛するなんてん出来るだろうかと思った。ね。ところがです、ね、そういう心の状態が巧めずして備わって来るんです。教えを行じておると。昨日、一昨日の美登里会にこの合楽の久保山さんが発表しておられました。ある、婦人会の会長さんをしておられますから、その(    )とのいろんな話し合い。もうそんな事なら婦人会をもう脱退すると言うて止めておるぶらくもある。
 まあ、そういう中に話し合いをまあこんがらがった話をせなきゃならんので。そりゃあまあ言うならば、相手の会長さんというのは、えげつない事も、言われたりされたりもするらしいけれども、ね、日頃この久保山さんの信心というのはもう、徹底して今日もどうぞ成り行きを尊ばして下さい。大切にさして下さい。ここで毎日お届けされるんです。その事に取り組んでおられます。朝の御理解を頂いて丁度その朝の御理解が、腹立ちを全て許してなすの花。というあの御理解を頂いた日だったそうです。
 ね。私どもが心に安らぎを頂きたい。安心のおかげを頂きたいと願わん者はないです。なら、その安らぎのおかげ、安心のおかげを頂く為には、言うなら、腹立ちを全て許してという、そういう心の寛大さというものがいるんです。ね。言うならば、次元が違わないとそれはただ、血の涙が出るような思いをして辛抱したということにだけにしかならん。それじゃおかげにならん。
 それこそ、これを寛大で許せれるということが有り難い。そういう信心が積もり積もってなすの花であり、なすのみかげ。なすのお知らせは安心のお知らせとここでは頂きます。ね。そういう安心のおかげを頂く為にも、腹立ちを全て許してと、許してじゃなくて、もう許せれる心の状態が、段々育って来ると言うのです。信心は。翌日、そのまあその人の所に話し合いに行かれた。まあ言うなら、敵地に乗り込むようなものである。けれども、そういう時に、そういう相手が敵であるとか。どうしたらいんじゃろうか思うてないもん。ひとつも。
 勿論お家で、あの花を創っておられますから、切花を、まあ花を、花どん持って話しに行かれたと。もうそれで、全てが解決だったと言う体験を発表されております。ね。敵地に乗り込むような。というような場合であっても、相手を思う情念と言うか。ね。心の寛大さと言う。又、あれが今日はどげなん事言うか分からん。言うたならこう言うてやろうといったようなものではなくてです。それこそ心に花を、という事であろう。それが形の上にも花で現れた。向こうも喜ばれた。
 いやあというわけでしょう。これは奇麗な花が開いてと。もうそこにはですね、言うなら感情というものがなくなっておるわけ。スムーズに話し合いが出来た。私はその話しを聞いて感心した。信心さして頂くならばです、そのくらいなね。もう信心のあるもんとない者の相違と言うかね。いわゆる次元が違っておるわけですもん。ね。言うならば、超えておるです。飛んでおるです。思い方が。ね。そういうしんいん、そういう心の状態が金光大神の教えを本気で行じておると誰しも頂けれるんだと言うのです。だから、誰でも御神徳が受けられ、しかもそれは、もうみてるという事がないという。
 私どもも信心さして頂いて、人が苦しいと言う時に、自分が同じような事で苦しいと言うておるんじゃ信心の値打ちはないです。ね。なら苦しい事は苦しいでしょう。ね。叩かれれば痛いです。けれども、有り難いと言うものがその答えに出てくるわけ。ね。神様の神愛をそこに感ずる事が出来るのである。私、キリストのみ教えというものが、芯が分かりませんけれども。その久保山さんのその事からです、ハア、万時の敵を愛せよと言う事はそういう事じゃないだろうかというふうにまあ今日は思うたのです。
 ね。もう全然、超えた考え方。超越してる。ね。そういう信心を限りなく進めて行くという事が生神金光大神を目指してということにもなりましょうし、尽きぬおかげ。言うならば尽きぬ、みてるということのない御神徳にも触れて行く事が出来る。ね。自分の思い方、考え方がどうして変わらんじゃろうかと。それは、あなたが教えを行じていないからだと言う事にもなるでしょうね。どうぞ。             (ゆきこ)